猿の手とパンドラの箱=ストーカー

タルコフスキーの「ストーカー」について再び書く。今回はネタバレを気にせず書くので注意。どんな映画かは以前の記事参照。

ohumigarasu.hatenablog.com

この映画の面白味は「猿の手パンドラの箱」であるところにある。さらに加えて言うと、遠野物語の「迷い家」のような部分も魅力だ。では具体的にそれがどういうことか書いていこう。

 

本作の「ゾーンの部屋」は人間の望みを叶える場所である。しかしそれは「猿の手」と同じように皮肉な形での願望成就である。つまり言葉で望むものと本当に望むものは往々にして違うということである。

作中で語られるある男は部屋に到達し、病気の妻を救うことを願う。しかし男が得たものは妻の快癒ではなく、妻の死亡による多額の保険金であった。そう、男の無意識は妻よりもカネを選んでいたのだ。そのことに気づいた男は自殺する。

ここには監督の変わらぬテーマである「心の奥底に眠る願望とそれを映し出す鏡」がある。猿の手に近い本作の舞台設定は実にこのテーマをうまく表現していると思う。

 

では「パンドラの箱的」というのはどういうことか。パンドラの箱は開けられて多くの悪が飛び出し、最後には希望だけが残るというものである。ちなみにパンドラとは「全ての贈り物」という意味だ。

 

部屋が望みが叶えるということは恐ろしいことだ。悪用される危険はもちろん、善人が善を願っても恐ろしい結果を招くかもしれないからだ。人が本当に望むものなど、当人にも分からない。本当は見たくない自分がそこにいるかもしれない。

 結局、登場人物たちは部屋を爆破もせず、部屋に入ることもしない。それはゾーンの部屋が最後の希望だからだ。部屋は数々の悲劇や罪悪、偽善を生み出すが、人々がどうしようもなくなったとき、最後にすがる希望だからだ。

 もちろんこの希望とは皮肉な希望である。希望があるがゆえに、人々は絶望し諦めることもできない。だから登場人物たちは、あえてその希望を残すことにする。これは実にパンドラの箱的な魅力と言えよう。

文化とは抑圧的な側面を必ず持っている

独り身女へのプレッシャーinアメリカ - アラサー女の東海岸一人暮らし

日本が集団主義で外国が個人主義というのも単純な思い込みよな。現実にはそんなキッチリした区分けはできず、どこの国も集団主義な部分と個人主義な部分が混ざり合って存在している。

 

上記記事のようにアメリカもパートナー主義、ラブ至上主義、軍人に対する敬意などである種の集団主義であるということは、実際に住んいるからこそ分かる部分だろう。

日本で集団主義というと何かファシズムのような誤解を招くものであるが、文化というものは多くの人々の共通認識、コモンセンスであり、そしてどんな集団(国家、文化的集団)であっても、「人々を結びつける何らかの共通認識」無くしては存続できないという部分を当たり前に持っている。

 

そうした「人々を結びつける何らかの共通認識」はどの社会でも必ずあり、そこから外れた人々に対し、必ず何らかの抑圧を生み出す。文化とは抑圧的な側面を必ず持っているのだ。そこで自国の文化の抑圧を否定して、外国は夢のユートピアで抑圧が一切存在しない個人主義だと考えるのはあまりに甘い。

 

そしてもっと根源的なことをいえば、言語活動(ランガージュ)がそもそも抑圧的な力を含みこんでいるのだ。〇〇とはこういう意味だと言ったとき、それはその意味以外のものを否定、排除してしまう作用がある。例えば、男とは〇〇だと言ったとき、それ以外のいくつかのあり方が否定されるようにね。

 

では、男とは自由で何でもアリとすればいいのかというと、それだとなんでもかんでも男を意味するものになってしまうので言葉の意味が成立しなくなってしまう(個人的発話、パロールは自由ではありえない。パロールは恣意的体系であるランガージュを変更する力を持つが、個人的発話は共同体の言葉に屈服させられやすい。それが言葉が根源的に持つ抑圧だ)。

人間は言語の抑圧と常に向かい合わなければならない存在なのだ。

タはタイトルのタ

『女性の胸は格納式で乳首を引っ張ると出てくる』『排泄行為と性行為の違いがわからない』まさに“性教育の敗北”を体現したかのような童貞が現れる - Togetterまとめ

https://pbs.twimg.com/media/DGYOKh0UwAAy0pI.jpg:small

性に嫌悪感を持つ家庭に育つとこうなるのかもしれない。もうこういう人は人工授精かクローンで子供を得ればいいんじゃないかな。

 

今の性教育が性を避けて曖昧にごまかすのが問題だが、それは今の教育の基本が「いかに性で傷つかないか」であることからきている。しかし、そうではなく「いかに性の喜びを享受するか」について語らなきゃいけない。「いかに性の喜びを享受するか」という部分こそが本質であり、ここを無視してはどうやってもおかしなことになる。

豊かになるほど

lullymiura.hatenadiary.jp

この人の分析はいつもマジで的確。

内閣支持率44%に上昇 - 共同通信 47NEWS

そして実質的中身は変わっていないのに国民は右往左往。まあ、国民が政治に興味がなくワイドショーに振り回されるレベルということは、それだけ平和で豊かな証拠なんだろうけれど。まーミサイル打たれるとか、年金がなくなるとか、行き着くところまで行かないと、たぶんどうしようもないな。

 

ちなみに面白い傾向として、豊かになるほど政治参加意識が薄れていく傾向がある。サウジアラビアとか、対GDP比国防費が10%(日本は1%)で総額でも世界4位の国防費という圧倒的な支出で、もちろんヤバい国に囲まれまくっているのに政治参加意識は極めて低い。

なぜなら、有り余るオイルマネーで国民みんな楽に豊かに暮らせるからだ(そして有事にはアメリカ軍という用心棒がいるのでなおさら呆ける)。うん、やっぱ人間恵まれてるとロクなことにならないね。

軍事費の対GDP動向をグラフ化してみる(2017年)(最新) - ガベージニュース

夜這い復活しかないな

news.yahoo.co.jp 

子供を増やすために必要なのは、娯楽の無さと、カネの無さと、逃げ場の無さだ。

 この島はこれらのものを多く満たしているということなのだろう。一見、交通の自由があるように見えても、地縁、血縁というのは大きなものだし、都会が合わなくて帰ってくるものも一定数いるだろう。意外に逃げ場はなく、その先では協力せざるを得なくて、娯楽とカネもないので子作りに励むぐらいしかなくなるのではないだろうか。

 

出生率を上げたいなら、みんなが貧乏でくっつかざるを得なくなった上で、恋愛とセックスを切り離す教育でもして夜這いを復活させるのが一番だけどね。まあ、それ以前の問題として、子作りが生きるために必要なことで無くなっているのが問題なのだけれども。

ポルポトと欧米のリベラル

欧米は人々の生得的な違い(能力や生まれの貧富)が優劣、不公平、差別をもたらすものだとみなす傾向があり、社会的規制でこれを是正しようとしたがる(有色人種がテストの点で水増しされるようにね)。一見これは公平そうに見えるが、実は人々の個性の否定であり、人々の成果の否定にしかすぎない。

 

こうした社会の行き着くところはポルポトの社会である。ポルポトは知識こそが貧富の差をもたらすものだと考えた。だから知識人を皆殺しにして「平等な社会」を作ろうとした。優れている者は階級を生み出す者として殺される社会であった。

 

そして、こうしたポルポトの社会と欧米のリベラルな考え方は実はそう遠くない、むしろ親戚のような近しい存在なのである。運動会で全員が一等賞という世界、それはユートピアではなく、脚の速い者が殺され、残されたものが恐怖で足並みを揃えてゴールする社会なのである。