イーガン 「自分」と「データとしての自分」

イーガンの小説で、仮想世界で仮想の妻を誘拐される男の話を思い出した。

最初、男は現実の妻が誘拐されたと思い込むが、現実の妻は危険もなく普段と変わらず家にいた。

ではいったい誘拐されたのは誰なのか……。

誘拐犯が使ったのは妻の脳スキャンデータにすぎず、仮想世界上で走らされているデータとしての妻が誘拐されたにすぎないことを男は知る。

しかし男は苦悩する。仮想世界とはいえ、妻の脳データから作られた妻が苦しんでいるとするなら、その「誘拐」は本物ではないのか、と。

結局、男はカネを払うことに同意するが……。

結末がどうなるかは、実際に本を読んでみてくださいな。

また、別の小説では自分のスキャンデータを売って、仮想売春をする女子高生というネタがあった。

分かりやすく言うと、自分には指一本触れさせないが、自分の裸写真を売るようなものだ。

技術が発達していくと、「自分」と「データとしての自分」の境界が生まれる。

それは時としてイーガンの小説のように分かちがたいモノにもなれば、仮想売春のようにまるで他人事にもなったりする。

そこら辺の曖昧な境界が面白い。