ゼロ記号と仏教の空について。または2世紀の記号論。

ゼロ記号:自らは何の意味もなく、他の記号との関係性によって意味を持つ記号である。

文章中の空白スペースや句や節の省略といったものが代表で、それ自体意味はなくても文章に大きな影響を及ぼす。

 

「私は笑った」という文章と「私は  笑った」という文章は意味合いが明確に違うように。


これは「ないのに形や意味がある」だったりするが、 ポイントは文章全体で初めて意味を持つという、「関係性」の部分にある。



仏教は、あらゆるものの実体を認めない考え方である(だから仏教には神もいないし、不滅の自我も来世もない。そうとうアナーキーな教えというか、概念の破壊から始まっている。宗教ですらない)。


仏教は苦しみや辛さはもちろん、体、感覚、イメージ、感情、思考すべて、実体がないというあり方で存在していると捉える。

この実体を認めないという、「空」という考え方が非常に分かりにくいわけだが、これはゼロ記号だとすると理解しやすいのではないだろうか。


現代的に言えば、これは下記のような解釈ができるのではないかと思う。

これは自分を、世界という文章の中の「空白スペース」だと思うことと同じだ。

「空白スペース」はもちろん実体ではないし、増えたり減ったりもしない。

無いのにそこに存在し、全体の関係性の中で意味を持つ。

もちろん、世界という文章もまた実体ではない。

これはこれで、また別の「空白スペース(シニフィエなきシニフィアン)」である。