タイトル考えるの面倒

計算する知性といかにつきあうか――将棋電王戦からみる人間とコンピュータの近未来 / 久保明教 / テクノロジーの人類学 | SYNODOS -シノドス-

 

上記は将棋電王戦をもとに機械と人間の相互作用に触れた文章だが、これには少し違和感があった。

なぜならこれには機械が自立した存在のように描かれているからだ。しかし、もちろんアルゴリズムは勝手に誕生したものではなく、あくまで人の手により開発されたものだからである。

例えていうなら、片方は電卓を使いつつ打つ棋士がいて、それがもう一方の生身の棋士と対局しているようなものであるからである。

将棋ソフトが打っているように見えても、そこにあるのはあくまで『人間(ソフト開発者)vs人間』であり、本当の意味での機械知性には、まだ人間は出会っていない。

(現在の将棋ソフトはほとんどがミニマックス法を発展させたものがベースになっているが、機械自体がミニマックス法を思いついた訳ではない。

そういった意味では典型的な『弱いAIにしか過ぎない。

強いAIと弱いAI - Wikipedia


ただ、ジョン・サールの『中国語の部屋』をうがった見方をすれば、将棋ソフトにも魂が生じていて、人間がそれに気づいていないだけかもしれないが)。

将棋は『二人零和有限確定完全情報ゲーム』に過ぎないので、機械の方が探索が早いのは当たり前である。

ただ、その機械も人間が作ったものである限り、そこにセンチメンタルな感情を差し挟む必要はないと考える。