文化とは抑圧的な側面を必ず持っている

独り身女へのプレッシャーinアメリカ - アラサー女の東海岸一人暮らし

日本が集団主義で外国が個人主義というのも単純な思い込みよな。現実にはそんなキッチリした区分けはできず、どこの国も集団主義な部分と個人主義な部分が混ざり合って存在している。

 

上記記事のようにアメリカもパートナー主義、ラブ至上主義、軍人に対する敬意などである種の集団主義であるということは、実際に住んいるからこそ分かる部分だろう。

日本で集団主義というと何かファシズムのような誤解を招くものであるが、文化というものは多くの人々の共通認識、コモンセンスであり、そしてどんな集団(国家、文化的集団)であっても、「人々を結びつける何らかの共通認識」無くしては存続できないという部分を当たり前に持っている。

 

そうした「人々を結びつける何らかの共通認識」はどの社会でも必ずあり、そこから外れた人々に対し、必ず何らかの抑圧を生み出す。文化とは抑圧的な側面を必ず持っているのだ。そこで自国の文化の抑圧を否定して、外国は夢のユートピアで抑圧が一切存在しない個人主義だと考えるのはあまりに甘い。

 

そしてもっと根源的なことをいえば、言語活動(ランガージュ)がそもそも抑圧的な力を含みこんでいるのだ。〇〇とはこういう意味だと言ったとき、それはその意味以外のものを否定、排除してしまう作用がある。例えば、男とは〇〇だと言ったとき、それ以外のいくつかのあり方が否定されるようにね。

 

では、男とは自由で何でもアリとすればいいのかというと、それだとなんでもかんでも男を意味するものになってしまうので言葉の意味が成立しなくなってしまう(個人的発話、パロールは自由ではありえない。パロールは恣意的体系であるランガージュを変更する力を持つが、個人的発話は共同体の言葉に屈服させられやすい。それが言葉が根源的に持つ抑圧だ)。

人間は言語の抑圧と常に向かい合わなければならない存在なのだ。