猿の手とパンドラの箱=ストーカー

タルコフスキーの「ストーカー」について再び書く。今回はネタバレを気にせず書くので注意。どんな映画かは以前の記事参照。

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この映画の面白味は「猿の手パンドラの箱」であるところにある。さらに加えて言うと、遠野物語の「迷い家」のような部分も魅力だ。では具体的にそれがどういうことか書いていこう。

 

本作の「ゾーンの部屋」は人間の望みを叶える場所である。しかしそれは「猿の手」と同じように皮肉な形での願望成就である。つまり言葉で望むものと本当に望むものは往々にして違うということである。

作中で語られるある男は部屋に到達し、病気の妻を救うことを願う。しかし男が得たものは妻の快癒ではなく、妻の死亡による多額の保険金であった。そう、男の無意識は妻よりもカネを選んでいたのだ。そのことに気づいた男は自殺する。

ここには監督の変わらぬテーマである「心の奥底に眠る願望とそれを映し出す鏡」がある。猿の手に近い本作の舞台設定は実にこのテーマをうまく表現していると思う。

 

では「パンドラの箱的」というのはどういうことか。パンドラの箱は開けられて多くの悪が飛び出し、最後には希望だけが残るというものである。ちなみにパンドラとは「全ての贈り物」という意味だ。

 

部屋が望みが叶えるということは恐ろしいことだ。悪用される危険はもちろん、善人が善を願っても恐ろしい結果を招くかもしれないからだ。人が本当に望むものなど、当人にも分からない。本当は見たくない自分がそこにいるかもしれない。

 結局、登場人物たちは部屋を爆破もせず、部屋に入ることもしない。それはゾーンの部屋が最後の希望だからだ。部屋は数々の悲劇や罪悪、偽善を生み出すが、人々がどうしようもなくなったとき、最後にすがる希望だからだ。

 もちろんこの希望とは皮肉な希望である。希望があるがゆえに、人々は絶望し諦めることもできない。だから登場人物たちは、あえてその希望を残すことにする。これは実にパンドラの箱的な魅力と言えよう。