「貴族と奴隷の国」が、まるで「助け合いの国」のように見える罠

日本って本当に助け合いの精神が0に近い - 遊びまくる!

「助け合い」ってのはお互いにメリットのある相互扶助のことを言うのであって、一方にしかメリットのないことは「助け合い」とは呼べない。「施し」である。この区別がついてないと「施し」のある「貴族と奴隷の国」が、まるで「助け合いの国」のように見える。

 

アメリカが寄付大国である理由は、米国では慈善事業に寄付をすると税金の控除を受けられることにある。いわば一種の経費のように処理できるということだ。

ようするに税金で丸々消えるはずだったお金が減額されるのである。その減額はもちろん税金によっている。「金持ちが一般市民の懐に手を突っ込んでカネを集め取っている」と言われても仕方のない制度なのである。

しかも寄付先は選べる。キリスト教徒がイスラム教系支援団体に寄付しないように、自分が有利になる寄付先を選ぶことができるのだ。一番分かりやすい例で言えば、自分の息子が通う学校に寄付をすることである。もちろん息子はこれで非常に有利な立場になる。これが公平と言えるのか。むしろ金持ちに有利な制度だ。

それは「施し」どころか、実際には貴族が奴隷からさらに毟る社会なのである。一見利他的な「施し」には常に罠がある。それは格差の大きさの証拠であり、貴族の優位性が確保されている証拠でもある。

米国式の「寄付」が最善といえない理由 : J-CAST会社ウォッチ

 

一方、日本は「施し」を嫌う。お互いのためにならないと考える。だからお互いにメリットのある「助け合い」を行う。

 

助けてもらいたいものは、ただ「施し」を待っているべきではない。弱者は弱者なりに何か提供しなければならない。何も差し出さず、不機嫌そうに「もっともっと」という弱者に何かしてやりたいと思うか? お互いメリットを提供しあって初めて社会は全体が豊かになるし、弱者は弱者を脱することができる。

そうでない社会は、弱者はいつまでも弱者のままで「施し」を待つしかない存在だろう。「施し」のある社会とは貴族がさらに栄えることを前提としているのだ。