ビット文学とウィリアム・バロウズ

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これが人の手の触れないビット文学か。むしろバロウズはAIだったのかもしれない。

バロウズは言葉の制約を乗り越えることで現実の制約を乗り越えようとしたけれど、AIは文字通りそれを可能にし、現実を塗り替えるのかもしれない。

 

機械がまるで可能性に挑戦するかのように様々に奇妙なことをやるのは、ある意味当たり前のことである。要素たちにごく単純なルールを与えただけでも無数のランダムなパターンが生まれるからだ。しかし重要なのはそのようなランダムなカオスではなく、複雑性の高まるカオスの縁で秩序と様々なパターンが入り乱れる部分にある。

カオスの縁 - Wikipedia

生命においては淘汰圧が働き環境に適応できないパターンはどんどん削除されていく。AIは未だマトモな淘汰圧に晒されたことがないので、これからも奇妙なパターンを無数に生み出し続けるだろうが、そのほとんどはラリったジャンキーの意味不明な呟きと同じだ。今後、AIに淘汰圧を掛けていったい何が残るのか、その中で残る秩序とカオスの狭間の部分こそが重要だ。