あほくさい

リベラルは失敗から学んだのか -拉致問題と三浦瑠麗の「スリーパーセル」発言から考える議論の方法 | Football is the weapon of the future

この人の考えは浅い、踏み込みが足りない。

ある大集団の中の小集団が工作員や過激派だからといって、大集団のすべての人が工作員や過激派ではないというのは当たり前であり正論であり、私もそこに異論はない。

 

たとえばイスラム教徒の一部に過激派がいるとしてもそれはごく一部であり、ほとんどのイスラム教徒は善良な一般人である。イスラム教徒から見れば過激派はイスラム教などではない、単なるテロリストである。

日本人に分かりやすく例えれば、オウム真理教を仏教系団体と認めず仏教系過激派とも言わないのと同じだ。もしオウム真理教を見た外国人が仏教の中には過激派がいて仏教徒の中に紛れ込んでいる、仏教徒は怖いと言ったら日本人は悪いジョークだ、オウムとかあんなの仏教でもなんでもないと思うのに似ている。

 

このように一部の過激派からその大集団全体を見ることは差別に繋がるが、ここで「差別はダメだ」で簡単に済む問題ではないのが難しい点であり、考えねばならない点だ。

 

というのも、工作員や過激派は「わたしは工作員で~す、過激派で~す、これから悪いことをしま~す」なんて言わないからだ。工作員や過激派は善良な一般人を装い破壊活動をするから、工作員や過激派と善良な一般人の違いが分からないほとんどの人は差別とも言える警戒をしなければならないのだ。

また、ここで大きな問題となるのは「被害の不可逆性」である。ようするに殺されたり外国へ拉致されたり、回復不可能な被害を受けた後、「あの人は工作員や過激派だった」と気づいても遅いのである。殺されたり拉致されてしまえば、もう泣き寝入りするしかなくなってしまう。

 

こういったことに対して、「差別はダメだ」で済ませる知識人やリベラルは無邪気すぎるとも言える。まあ一番いいのは、差別されたと訴える集団の人々が、「自分たちは善良な集団だ、それを行動で証明してみせる」と言うことである。そして工作員や過激派、犯罪者などを自分たちで捕まえたり内部告発したり、地域に貢献してみたり、そうした地味な積み重ねがあって初めて隣人たちから信頼が得られるというものである。

 

差別は無理解から生じる、とはよく言われることである。しかし忘れがちなことであるが、理解というものは一瞬で生じるものではなく、むしろ長い時間をかけた信頼から生まれるものなのである。もちろん、この信頼というものは一方的な押し付けでは成立しない。「俺たちは善良な集団だ。信頼しろ」と言うだけでは当然ダメだ。だから試されているのは日本人であるというよりも、むしろ外国人の方である。

 

まーだいたい相互理解が大切とか言いながら、こういう問題は日本人がどうするかという片面だけの提起に終わっていて、外国人がどうすべきかは語られずに終わるんだよな。それに実際テロでも起きて、そのテロ被害で死んだ者の家族にどう声を掛ければいいのかに無自覚すぎよな。テロ犯は一部の工作員や過激派だから憎むな、今後も差別はするなと面と向かって言えるのだろうか。そういう難しい問題なんだよな。