準コスモポリタン

プリキュアが「男の子だって、お姫さまになれる」に言及したのは、けっこう凄い事。 - プリキュアの数字ブログ

昨今はとにかく多様性バンザイで多様性さえあれば夢のユートピアが訪れるかのように語られることが多いが、個人的には多様性はより上位の集団の内部で認められるべきものじゃないかと思う(例えばさまざまな人種を含みこんでアメリカ人という概念があるように)。

 

犯罪など犯さない限り自由で多様でいいじゃないか、なぜ非合理で古臭い慣習(〇〇はこうあるべきだ)に縛られなければいけないのか、と多くの人は思うだろう。

 

しかしこうした規範(規制)は人々に強力な力を与えるものだ。それは規範や慣習でまとまる「集団の強さ」であり、その根源となる帰属意識、同質性を育てるものだからだ(お互いを仲間と認めあうには何らかのシンボルや規範、規制が欠かせない)。こんなことを言うとファシストなのかと言われそうだが、「集団の強さ」という現実的に欠かさざるを得ない重要なものを無視したまま、多様性のメリットだけを語るのはどうなのかと思う。

 

もちろん女が戦ってもいいし、男がスカートを履いてもいいし、LGBTでもなんでもいい。しかし多様性重視の社会は個人を重視しすぎるがあまり個人対個人の争いも生みやすく、集団としての力を失いやすい傾向がある。

 

ここでいう「集団」「帰属意識」「同質性」とは、もちろん性別や肌の色とは無関係なものである。アメリカは様々な人種のるつぼであるが、人種を超えて「アメリカに忠誠を尽くすアメリカ人」という「帰属意識」「同質性」を持っている。そして、もしこれがなければアメリカは各州ごとにバラけてしまいかねない危うさも持っている(一度南北で戦争したし、北部と南部じゃいまだに別の国かというぐらい考えや法が違う)。もしアメリカ人という「帰属意識」がなければ、それぞれ黒人国、白人国、ゲイ国などに分裂してしまってもおかしくはない。そうならずアメリカが強大な国としてやっていけるのは、アメリカ人は〇〇であるという最低限の様々な暗黙の了解(規範)が存在するからである。

 

日本での具体例を言えば「ぜったい子供は産んで地域で育てるべし」という慣習、規範、人々の共通認識が崩壊した結果、さまざまな争いが生まれているのも事実だ(別にそうした慣習が優れているわけでもないし、崩壊は避けられなかったが)。

「うちは子供もいないし静かな環境で暮らしたい」という人と「保育園をもっと建てて欲しい」という人は対立し、結果的に保育園という公共事業(集団としての力)を失ってしまったりする。これは単なるわがまま以前に、その地域集団への帰属意識があるかという(同質性のある仲間なら代償を払う、そうでなければ払わないという)問題なのだ。もちろんこの例で言えば、他人の子供など同質性のある仲間とは認められないと思った人が代償を厭ったから保育園は開園できなかったのである。

 

だから現代に合わない慣習やらジェンダーやらを変えていくのは別に構わないが、どこかの部分で「集団」「帰属意識」「同質性」を最低限は確保するような、お互いを仲間と認めあう何らかのシンボルや規範、規制がなければ、簡単に我々は無力な個人個人にバラけていってしまう。多様性と人々の分裂は表裏一体なのである。

 

分かりやすく言えば、現在貧乏な国や戦乱の多い国は部族、宗教、思想、言語などで「集団」「帰属意識」「同質性」がバラバラな国だと言える。逆に発展している国は人種などがバラバラであっても「集団」「帰属意識」「同質性」がハイレベルで統合されているといえる。まー理想としてはコスモポリタンなんだろうが、それが現実的でない以上、我々はどこかで最低限の「仲間と認め合う儀式」をしなければならない。