闘争を起こさないための2つの方法

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日本型ハイコンテクストも西洋型ローコンテクストも、つまるところ破滅的な闘争を起こさないための方法という点では同じで、方法が違うだけである。

 

ローコンテクスト背景の人が言葉を多くしたり議論をするのは揉めたいのではなく落とし所を見つけたいからだというのはその通り。西洋は無数の闘争があったからこそ、権利、契約、法で、つまり言葉で明確に落とし所を規定し闘争を回避しようとする。

 

日本型ハイコンテクストは全く異なった方法で同じように闘争の回避を図る。それは言葉の激化によって闘争に発展するのを避ける沈黙、曖昧、なあなあで融通が利くなどであり、明確化は宣戦布告に通じるものとして避けられる。

そしてそれを助けるのが暗黙の了解、コモンセンスであり、ハイコンテクスト型社会では、様々な通過儀礼によって暗黙の了解、コモンセンスが強化され、より破滅的な闘争が起きにくいように、より沈黙、曖昧、なあなあな社会になっていく。

 

これは問題も大きいが、一方で意思疎通や団結が非常にスムーズで仲間割れなく集団で目的に進みやすい社会である(村社会、終身雇用、護送船団方式)。まあ、集団で目的に進んだ先でなあなあだから破綻しやすくもあるが、最初から権利、契約、法で人々が距離を置く分裂社会とどっちもどっちではあるかもしれない。

 

ハイコンテクスト型社会では、権利、契約、法が未だに弱いという弱点もあるが、多くの人々を統合するのに都合がいいという点は見逃せない。ローコンテクストだと未だにアメリカは北部と南部で別の国かというぐらい対立があるし、選挙ごとに正反対の方向性の党が勝って政策が継続しないなど、いろいろ明確にするが故の面倒さも目立つ。

 

欧米が今LGBTで盛んに叫んでいるのも権利、契約、法を明確にしなければ殴られてもおかしくない社会だからであって、ゲイでもオカマでもよく分かんないけど好きならそれでい~じゃんみたいな(好きなら何でもいいという暗黙の了解)、ゆる~いハイコンテクスト型な許容はしにくいという問題もある。

(欧米はゲイを法で罰する社会から法で権利を認める社会に転換しつつあるが、ず~と曖昧に法で認めるでもなく罰するでもなく、好きにしたらいいんじゃねえのと放置するハイコンテクスト社会とどっちがいいんだろうか)。

 

まー難しいのは、ローコンテクストもハイコンテクストも、その中間も問題だらけで正解がないということだろう。

そういやロラン・バルトの「表徴の帝国」のようにハイコンテクストを意味からの解放だと見る人もいて面白いのを思い出した。

表徴の帝国 - Wikipedia